2013年05月07日

ロジクールのキーボード K810 を使う

さて、少し前にロジクールのキーボード K810を購入したわけです。
私としては、お気に入りな訳ですが、実際に使っている方のコメントでは、少し異なる意見も見られるようです。
そこで、2点ほど、特徴的な部分を書いてみようと思います。

【キーの感触について】

もともと、「薄型」の「パンタグラフ」タイプのキーボードなわけで、キーの感触については、賛否両論といった感じがします。
実際、例えば、「感触」では、絶賛されている東プレのREALFORCEシリーズ
http://www.topre.co.jp/products/comp/
と比較すると、これは、「考え方が違う」という程度に、方向性から異なります。

従って、上記のキーボードに慣れた方がK810を使うと、少なくとも違和感を持つと思います。

東プレのキーボードは、「軽い感触」で「ロングストローク(3.8mm)」のキーボードで、高速でしかも、ラフにタイプしても、指にストレスがかからないというタイプです。
また、キーの全ストロークでキーを押す力の変化が少なく、いわば「空気を押している」ような感触のキーボードです。

一方で、K810は、これに比べると「重く」「押す力の変化が大きく(いわゆる、明確なクリック感)」「ショートストローク(2mm)」のキーボードです。

このタイプのキーボードが出現した頃は、省スペースのために仕方なく作られたものというイメージが確かにありました。
が、一方で、明確なクリック感とショートストロークは、「指を動かす距離が少ない」ということを意味していて、これまた、高速タイピングが可能です。
(が、こちらのタイプは、クリックを感じると同時に(底突きすることなく)キーを離すという、ある意味、丁寧なタイピングが必要です)

私などは、指を動かす距離が長いキーボードに疲労を感じ始めたので、このショートストロークタイプのキーボードがお気に入りというわけです。

【K810にはチルドスタンドがない】

実は、ロジクールは、「チルトスタンドを省略した」のではなく、「敢えてつけなかった」ようなのです。
http://www.logicool.co.jp/ja-jp/products/keyboards/articles/5923
では、Zero Degree Tilt と称して、「フラットなキーボードが good 」と主張しています。

以前は、必ずチルトスタンドを立ててキーボードを使っていたのですが、これも、かなり短期間に慣れました。
で、しばらく使っているうちに、おもしろいことに気づいたのでした。

わたしはタッチタイプができます。
そして、タッチタイプの「基本」は、「ホームポジション」(asdf と jkl:)に4本の指を置いて、目的のキーを打つ指だけが、ホームポジションから離れるということになっています。
が、どうやら、現在では私の指は、2列目と3列目(qwer の列と asdf の列)の間にあって、(キーを打つ指だけではなく)一斉にキーボードの上を動いていることがわかりました。

この動きは、確かに、「薄型」かつ「平坦」なキーボードでなければできない動きです。
また、この特徴を持つキーボードだと、確かに、チルトがない状態で快適にタイピングできることに気づいたわけです。

以上、2点ほど気づくところを書いてみました。
posted by 麻野なぎ at 18:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 周辺機器のあれこれ

「月の森のカミ」と「あかぎれ多弥太」

上橋菜穂子の『月の森に、カミよ眠れ』を読んだ。
 解説で、武田静澄氏の『日本伝説集』にある「あかぎれ多弥太」伝説に触れられており、これが、物語の発端となっているらしき記載がある。
 ところが、「あかぎれ多弥太」自体には、たどり着けないようだ。

 まず、武田静澄著『日本伝説集』(現代教養文庫 昭和51年 初版第17刷)より、引用する。

---------------- 引用開始

あかぎれ多弥太

 祖母山という山は、日向、豊後、肥後の三国にまたがる高山であるが、そのふもとの塩田というところに、塩田の太夫という長者が住んでいた。長者には、花のみもとという涼しいひとみをもった美しい娘がいた。花のみもとは、やがて年頃になった。が、ふるような縁談にも耳をかさず、秘蔵の玉といつくしんだ。
 いつの頃からか知れないが、明るい月夜になると、横笛のさえた音が高い。空に反響した。だれの手すさびかと、そっとうかがってみると、昼のように明るい白い道を、身分ありげなひとりの若ものが歩いていた。いいようもない優れた笛のぬしは、その若ものだった。なおもあとをつけてゆくと、若ものは長者のいかめしい塀をこえて、庭の奥へしのびこんでいった。
 村人のうわさ話は、じきに両親の耳にはいった。母親はみもとをよんだ。「お前は、親の知らない男としたしくしているというではないか。その若ものというのは、いったいどこの人です」
 いくら問いただされても、若ものの氏素性を知らないみもとは、答えることはできなかった。母親はみもとにいいつけて、そっと若ものの着物の襟に、糸のついた針をつきささせた。
 若ものはそれともしらずに、明けがたが近づくと、どこへともなく帰っていった。翌朝、塩田の長者は力じまんの村人を大ぜいつれて、糸をたどって追っていった。その糸は野をこえ、山をこえ、どこまでもつづいていた。ついに一同は、日向と豊後と肥後の境にある祖母山のふもとまでたどりついた。糸のさきは、とある岩穴の中へ入って消えていた。ふしぎなこともあるものだ――人々が岩穴の前に立ちどまって思いまどっていると、穴の中からはぶきみなうめき声が聞こえてきた。さすがの屈強な男たちも、あまりの恐ろしさに、顔を見あわせるばかりで、だれひとり進んで穴に入ろうとするものはいなかった。
 そのとき、一行のあとからついてきた花のみもとが進みでた。
「苦しそうにしていらっしゃるのは、どなたでしょうか」
「そういう声はみもとか。‘昨夜、わたしはのどに針をたてられた。このままではやがて死ぬほかはないが、その前に、ひとめなりとそなたの顔をみたいものだ」
「わたくしもお会いしとうございます。たとえ、どのようなお姿であろうと、恐ろしいとは思いません。どうぞお姿をみせてください」
 岩穴の中からは、一そう苦しいうめき声がひびいてきた。と、はげしい地ひびきがして、暗い奥の方からあらわれたのは大蛇だった。
 みもとが大蛇の咽の針をぬいてやると、大蛇はみもとに向かって、
「わたしは祖母山のぬしだ。そちはやがてわたしの子を生むが、その子は、成人ののち九州随一の勇士になるはずじゃ」
 といって、まもなく息絶えた’
 みもとは大蛇が予言したとおり、月みちて男の子を生み落とした。子どもは成長するにしたがい、体格も大きく、力も強い少年になった。ふしぎなことに、この少年は夏でもあかぎれがあったので、人々はあかぎれの童子とよんだ。
成人すると、あかぎれ多弥太と名のった。そして祖母山のぬしのお告げのような勇士になった。多弥太五代目の孫に、尾形三郎という源氏の勇士がいたが、三郎のからだにはうろこがあったということである。

 (宮崎県西臼杵郡 祖母山)

---------------- 引用終わり

内容は、『月の森――』の、ホウズキノヒメを彷彿とさせる物語である。
また、伝説の多弥太を、タヤタとして登場させたものと思われる。

ただ、夏でもあかぎれがあったという、あかぎれ多弥太が、勇士となり、その子孫が、尾形三郎という著名な人物にまでつながったというのは、タヤタとはいささか趣が異なる。
さて、「尾形三郎(あるいは、緒方三郎)」という名前までたどり着くと、これはまた、種々の物語に到達できる。

http://www.miyagin.co.jp/pleasure/0103.html
http://www.d-b.ne.jp/siga/panora/ogata/ogatagawa.html

など。

いずれしても、尾形(緒方)三郎も、平家物語にもうたわれながら、義経と共に都落ちをはかりながら、捕まって流罪になるなど、なぜかうら悲しいさだめを感じさせるものと思う。

それでも、尾形三郎にいたる、多弥太の系図を考えるとき、これは、明らかにタヤタとは異なる物語につながっている。
多弥太の子孫は、人の中に残ったのだし、そうでなくても、都で魔物を退治したナガタチの立場だろう。
この意味で、あかぎれ多弥太の伝説が、『月の森――』のベースであるとか、モチーフになったというのは、適切ではない気がする。もちろん、重要な「きっかけ」であったとしても。

さらに、きどのりこ氏の解説で、「祖母山に伝わるほんの数行の伝説から」と書かれている。
出典も示されているわけだし、「ほんの数行の伝説」と言い切るのも、それは、適切ではない気がする。

さて、本編に戻ろう。
この物語は、「稲を作ろうとすると、〈かなめの沼〉意外に場所がなかった」という意識が下敷きになっている。
しかし、もうひとつの大きな要素は、キシメの畏れであった。
終盤でキシメ自身がこのことに気づいている。そして、「いちども、〈かなめの沼〉にふれずにムラが生きのびる道を、タヤタと語りあおうともおもいつかなかったのだ」とその心情を吐露している。

タヤタと(なりゆきではあったが)ナガタチという並外れた力士がそろっているのだ。本当に、〈かなめの沼〉いがいに稲作をする道はなかったのだろうか?

これは、ホウズキノヒメが「〈かなめの沼〉には手を触れてはならない」としながらも、(この秋という限定ではあっても)月の森に立ち入ることを許したのと――その、「カミ」との結びつきの強さの差なのだと思う。

もちろん、キシメがカミへの畏れを克服できなかったのは、若すぎるカミンマ故だったのか、律令に覆われ始めた時代世故なのか、それは、考えるべき点だとは思う。

最期に。
日本史の知識として、公地公民や口分田、班田収受は知っていた。
しかし、本書にこういう一節がある。
「郡司さまなど大きなクニの長たちは、朝廷に従うたとはいえ、おのれのクニはおのれのものだと思われていた……」
そう、それは、確かに、自らの持っていた土地を朝廷にさしだした(奪われた)ということだったのだ。
かつて、大化の改新―大宝律令―班田収受の法 という歴史の流れを学んだとき、幸福な国へのステップを踏んだように思った。しかし、その印象を、「おれたちのクニ」が「おれたちのもの」ではなくなった時なのだと思うと、別の感慨が浮かぶのである。
posted by 麻野なぎ at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感