2017年01月04日

ジェンダーを考えることの難しさ

最近、「ジェンダーフリー」ということが話題になる。
しかし、このことについて考えようとすると、私は、少々難しさを感じる。
それは、「ジェンダー」が、(生物学上のではなく)社会的・文化的性差と解釈されるとおり、「文化的性差」という側面を持っているからである。
文化的な素地を意識することは難しい。
一方で、「文化」を(たとえば、民族や地域の固有財産として)無条件に「良いもの」とする風潮もある。
しかしながら、「文化的性差」がもしも問題になるのなら、その素地にある、「文化」も、無条件に良いものと決めつけることはできないだろう。

その中でも、ジェンダーフリーの、本質的な考え方は、「平均値を外れることはありふれたこと」という事なのだろうと思う。
たとえは、統計的に調査を行って、「男の子は青を、女の子は赤を好む傾向が強い」という結果が得られたとしよう。
そういう結果があったとしても、「赤が好きな男の子」や「青が好きな女の子」は、ありふれたもので、別段特別なものでも、ましてや、異常なものでなどあり得ない……という、そういう考え方が本質なのだろうと思う。

だから、本来、男女で好きな色が異なるということは、あり得ないことと決めつけてしまうのではなく、たとえ男女で好きな色の傾向に差があったとしても、「彼女は女性だから赤を好む『べき』」と決めつけることが、まず、間違っているのだと思う。

【社会的・文化的に作られる性差】

2017年1月現在、日本の会社組織では、「女性の管理職は少ない」という事実がある。
一方で、「この時点」で、管理職としてふさわしいの力を持っている男性社員と女性社員の数を比べると、「男性の方が多い」という組織は、ある程度以上存在しているのではないかと思う。

ただし、これもまた、おそらくは「作られた性差」なのであろう。
管理職としての能力というのは、多くの場合、周囲の期待と教育によって作られる。
少し前まで、管理職として「求められた」のは主に男性だったというのは、事実としてあって、故に、男性ばかりにその教育がなされていたと言うこともまた、事実であろう。
だからこそ、2017年1月の時点では、管理職としての能力を持つのは、男性の方が多いということはありそうな事である。
これは、女性の特性という問題ではなく、有り体に言えば、「過去の(負の)遺産」ということになる。

ところで、こういうことは言われてないだろうか?
「男性は高所に立った見通しを立てることに向いており、一方女性は細やかな気配りが得手である」
これも、現時点では、傾向としてありそうなことに感じる。けれど、これは、本当に男女の特性なのだろうか? 子供の頃から、「男のくせに細かいことに気にするな」とか、あるいは、女性サイドからも、「細かいことに気にするのは、器の小さな男」という評価があったりしなかっただろうか?

言い換えれば、これもまた、「男らしさ・女らしさ」という社会的・文化的な要求の反映なのではないだろうか?

生物学にはっきりした性差のひとつが、「女性は子供を産むことに適した身体を持っている」というのは、明らかだろう。
ただし、「だから、女性は、育児に向いている」というのは、自明ではない。
これも、社会的・文化的要求の反映である可能性が高い。

文化的な要求というのは、案外やっかいである。
「日本的な文化」といった場合、それが、男女の役割を固定しているケースはありそうな気がする。
また、「役割」と構えて考えなくても、「女子会」や「ガールズトーク」という言葉が認知されていて、また、それは、男女の特性の差を反映しているとしたら、その、「性差」は、持って生まれたものだろうか? あるいは、「社会的・文化的に作られたもの」だろうか?

それを考えると、ジェンダーを一切認めないという社会は、(私としては)想像しがたいというのが正直なところである。

そうであっても、冒頭書いたように、「社会的・文化的要求(もしくは、予断)と一致しない」ということは、それはありふれたことで、彼や彼女が、異常ということでは決してないということを、私たちは強く意識しなければならないのだと思う。
それが、ジェンダーフリーにつながる、「十分条件」ではないとしても、「必要条件」として。
posted by 麻野なぎ at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ジェンダーをめぐる雑感
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