さて、時々こんな話を見かけることがある。
> 日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは、
> 「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげな
> さい」と教えるそう。
ここでは、本当にこう言われているのかを検証するというのではなくて、こういう場合に陥りがちな、「定義の問題」を挙げる。
一見すると、「迷惑」という同じものに対する、日本とインドの認識の差に見える。(インドでこう言われているというのが正しいとして)
しかし、ここに、「同じ言葉が必ずしも同じ事を意味しない」という落とし穴がある。
「人に迷惑をかけてはいけない」
こう言われた場合、具体的に何を思うだろうか?
・約束を破ってはいけない。
・自分のミスを人に押しつけてはいけない。
・待ち合わせをすっぽかしてはいけない。
私であれば、こんなことを思い浮かべる。
一方で、「私たちは生きているということ自体、他人(もっといえば、地球)に迷惑を変えるということなのだ」という発想は、最近では、そんなに珍しいものではない。
この場合の、「迷惑をかけている」というのはどういうことだろうか?
・他の人の労働 etc. がもとになって、生活が可能なのだ。
・一見、快適な生活をすることが、地球には環境負荷をかけている。
・お互い様
このあたりになると思う。
ようるすに、「他人に迷惑をかけるな」ということと、「生きていく上で、周りに迷惑をかけざるを得ない」ということは、同じ「迷惑」という言葉でありながら、意味しているところが異なる。
これが、定義の問題である。
つまりは、日本人は……、インド人は……と、一見異なる意見が並んでいるようで、(少なくともこれを読んだ日本人の感覚としては)
・本来かけなくていい迷惑はかけるな
・でも、どんな形であれ、生きていく上で誰かに迷惑がかかっているのは忘れるな。
と語っているだけで、矛盾する考え方ではないのである。
実際、この言葉を受けて、「インドの考え方の方が安らぐ」というコメントも見かけるが、「迷惑をかけるな」という、迷惑を具体的に考えた上でも、そう判断できるのだろうか。
あるいは、そもそも、無理強いをする口実として、「迷惑をかけるな」といわれるのを、「日本人の意識の問題」にすり替えているのではないか、ふと、そう思った次第である。
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さて、考えるべきはそれだけだろうか?
実は、日本人は、「人に迷惑をかけるな」という。こちらのほうは、その後が省略されている。
私たちは、「人に迷惑をかけるな。人の迷惑も許すな」と、本当に教わってきただろうか?
少なくとも私は、「人に迷惑をかけるな。でも、他人の迷惑は気にするな」と教わってきた。
出だしの部分で、一見して立場が異なる二つの文章を並べ、一方は後半の部分を隠す。
こうすることで、後半の部分も異なる意見なのだという先入観が忍び込むことになる。
2011年04月13日
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「他人の迷惑は気にするな」という文章には、自分のかける迷惑は含まれていません。生きていく上で不可避な迷惑を自分がかけるということについては、この考え方は何の答えも与えてくれない。自分が生きていく上で時には迷惑をかけなければいけないことがある、ということを指摘していないからです。
自分の行為への評価という観点を含めて比較すると「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」という立場と、「他人の迷惑は気にするな」という立場は、決して同じではありません。
実際、「他人に優しく、自分に厳しく」がよしとされる日本では、自分が迷惑をかけることにたいする嫌悪、恐怖が拭えませんし、それゆえに自責の念で精神的に苦しめられている人間は少なくないと思います。だからこそ、こうして自分が他人に迷惑をかけることについて、自分自身を認め、許すきっかけを与えてくれるインドの教えが、日本人に安らぎをもたらすのは当然です。
「自分が最低限の迷惑をかけることを認める、そして許す」ということを明確に示唆してくれるという点で、やはりインドと日本の考え方、教育の方向性は異なるものと考えざるを得ません。
コメントありがとうございました。
さて、この記事の(前半の)趣旨は、「人に迷惑をかけるな」と「自分も迷惑をかけているのだから」の「迷惑」は、同じ言葉でも意味は異なるということです。
具体例も挙げてありますが、二つの「迷惑」が同じ意味だと思われましたか?
また、「自分が迷惑をかけること」については、本文でも、
>一方で、「私たちは生きているということ自体、他人(もっといえば、地球)に迷惑を変えるということなのだ」という発想は、
>最近では、そんなに珍しいものではない。
と書いたとおり、(お書きのような)「自分が最低限の迷惑をかけることを認める」というのは当然のことだというのが、本文の主旨です。
その上で、「人に迷惑をかけるな」という言葉のせいにするのは、違うのではないかということです。
さらにいえば、「自分が最低限の迷惑をかけることを認める」という、「最低限の迷惑」というのは、(よりよく生きるという意味も含めて)生きる上で必須ではありませんか?
これは、そもそも「迷惑」と認識して、「許す」べきことですか?
だから、本文では、「気にするな」と書いています。
だって、それは、とりたてて「迷惑」というべきものではないのですから。当然、「許す」という性質のものでもないと思います。
最後に、「自分に厳しく」というのは、(それを他人に押しつける場合を除けば)本来、自分自身のあり方に属するものです。
だから、本当に、「自分に厳しい」と評価される人は、厳しいこと其れ自体で評価されるのではなく、「自分がこうありたい」という確固たる自我が評価の対象になっているはずです。
いずれにしても、「自我を抑圧して、人に迷惑をかけないように気にして生きているような人」を「自分に厳しい」とはいわないはずです。
その逆で迷惑はお互い様だと開き直って極端に自分勝手に生きる人
どちらも私は大嫌いです
前者は周囲の人にも過剰な気遣いを強要する空気を作りますし
後者は言うまでもなく不快です
この事例だけではなく全ての行為はバランス良く行わなければいけないのでしょうね
コメントありがとうございます。
確かにお書きの通り、バランスが大切なのだと思います。
が、あわせて、「定義の問題」というのは、意識する必要があると思います。
お書きの、「迷惑をかけないように過剰に気遣い」と「お互い様だと極端に自分勝手に生きる」というのと、それぞれの「迷惑」の内容はやはり異なると思うわけです。
だから、「迷惑をかけるな」という言葉だけで、それが正しい主張かどうかは判断できずに、「あなたは、どういう意味で迷惑という言葉を使って、その上で、『迷惑をかけるな』と主張するのですか? という問いかけは、時として必要です。
お書きの例では、単に、迷惑をかけるかけないだけではなく、「過剰な気遣い」や「極端に自分勝手」という言葉を含めて、迷惑の意味が表現されているので、よくわかりますが。
そいういう、「どういう意味を主張しているか」を含めたバランスは、やはり、必要なのだろうと思います。
聞いたことないです
読み直してみると、
「人に迷惑をかけるな。でも、他人の迷惑は気にするな」というのは、意味が曖昧でした。
直前の、「人に迷惑をかけるな。人の迷惑も許すな」に対する疑問を呈する場面なので、意味としては、
・他の人に対しては、迷惑をかけるな
・他の人が(自分に対して)かける迷惑に対しては、(あまり)気にするな。
という意味で書いています。
※全く気にするなもなんなので、「あまり」を追加しました。
>あるいは、そもそも、無理強いをする口実として、「迷惑をかけるな」といわれるのを、「日本人の意識の問題」にすり替えているのではないか
どっちかというとこの部分の方が強調すべき点だと思うんです。
「迷惑をかけるな」という教えを同調圧力で維持するって日本文化は、立場が上の者にとってものすごく都合がいいので、記事でご指摘されてるようなすり替えは多く起こってると思います。最初に「迷惑」の内容を定義されずに「迷惑をかけるな」と教えられ、こうしたすり替えに直面した場合、迷惑の範囲をその出来事の方に寄せて認識し、教えの内容をただの建前あるいは「長いものに巻かれろ」的な息苦しいものととらえるのはむしろ自然なことなんじゃないでしょうか。
日本の教えのみから「迷惑」の定義を
>・本来かけなくていい迷惑はかけるな
>・でも、どんな形であれ、生きていく上で誰かに迷惑がかかっているのは忘れるな。
に持ってくには、よほど善良な関わりの中で生きていくか最初から定義を教わるかだと思いますが、それが十分にできてるとは思えません。
あるいは実際に可能な「他人に迷惑をかけない生き方」を考えるというのもありますが、これに関しては
>迷惑をかけないように過剰に表向きの気遣いをする人
に陥る危険性があり、まして上記すり替えやイレギュラーな自分勝手人間との遭遇を考えると、全員が正しい答えに行き着くというのはないと思います。
元々の教えが表すものはおそらく記事でおっしゃられているようなことかもしれませんが、長らくそれは誤った解釈をしやすい運用がされてきており、その誤った解釈に陥ってストレス感じてた人たちが逆の視点であるインドの教えを知ったことにより「安らぐ」と感じた、といったあたりが正しい表現であると私は考えております。
コメントありがとうございました。
確かに、「二つの考え方が同じ」というのはいいすぎかなと思います。が、「そんなに大きく違っていない」とはいいたいなとは思っています。
確かに、「迷惑をかけるな」が、同調圧力として使われる場面は多いと思います。さらに、それが(抑圧される側にとってさえ)「迷惑をかけるのは、とにかく間違っている」という意識につながっていることが多いのも、現実だと思います。
だからこそ、「迷惑をかけるな」というのは、本来そういう意味で使われるものではないということを主張したいと思います。
そして、「インドでは……」というとらえかたで安らいでしまうと、「インドの考え方の方がいいな」で終わってしまう気がするのです。
自分たちの考え方が、本当に「同調を強いるもの」でしかないのか、それを考えて、「迷惑をかけるな」といわれたときに、「それは本来の意味ではない」と主張したいというのが、思うところです。
「じゃま」「うるさい」って言われたりするからなあ。
外国の方は席を譲ってくれたりしますが、日本人は、寝たふりしますし・・・
まして、赤ちゃんが泣きだしたりしようものなら、
「電車から降りろ」ってなりそうで怖いです。
そう言われている人見たことありますし。
赤ちゃんに危害(言葉の暴力含)が加えられるのが怖くて、
電車に乗るのが怖いと思ってるママは多いと思います。
赤ちゃんの泣き声を迷惑と捉える国は、日本だけではないかもしれませんが、それを許さない厳しさは日本がダントツのように思います。
迷惑かけないってよっぽどのことがなければ問題はないと思う。
人にわざわざ嫌がらせする人は基地外だけど。
けど赤ちゃんが泣いてる程度でそれを迷惑と考えるのが日本の現状じゃないかな。
どうせ気分が悪いのでしょうから赤ちゃんを口実にしているのだと思います。
それは自分が我慢してやってる、そのしてやってるが問題なのでは?
何か迷惑をかけないことに必要以上に神経尖らせて迷惑かける人いますね。
↑これ場合によっては赤ちゃんよりよっぽど迷惑です。
機嫌悪いと周りも同じくらい悪くないと気が済まないみたいな?
どうせ迷惑はかけるんですよ。
それを自分も相手も気にしないで楽にやれるならお互いに甘い方がいいです。
本来、この記事の趣旨は、「そもそも、迷惑をかけることを気にして病んでしまう環境というのは、『迷惑をかけるな』の拡大解釈ではないか」という点にあります。
だから、ここで言う、「日本で昔から言われていたこと」は、「生きるために必要な迷惑ではない、身勝手な迷惑はかけるな。でも、他人からの迷惑は気にするな(インドとの比較では、後半が省略されていますね)」ではないかという主張になります。
本当はどういう意味で言われていたのかをはっきりさせないと、そもそも比較はできませんし、「現状」を作ってしまっている責任を(私たちではなく)昔からそう言われていたという言い訳で、過去の人々に押しつけてしまうことになります。
インド人の方が〜とか言う人は、自分が迷惑をかけている認識がないまま生きてきたことに対する言い訳が見つかって、本当によかったですね。
でも、今の日本は実際、人から迷惑かけられることを許さないですよね。とても厳しい文化になってますよ。
ブログ主です。
さて、自分が迷惑を受けたと思い込んで、誰かを非難する人が、あるいは増えたかもしれません。
が、それを真に受けて、「迷惑をかけることは許されない」と即断する必要はないかなというのが、当方の基本スタンスです。
自分の生死に関わることなら、迷惑をかけるのも許容範囲でしょう。
「それと同じ」で、自分が正しく自分であるためなら、ある程度の迷惑は許容範囲というスタンスです。
ついでに言えば、こういう議論の際に「迷惑」という言葉だからといって、十把ひとからげにするのは間違いのもとです。
これを意識しないと、「インドでは『あらゆる』迷惑が許され、日本では『どんな些細な』迷惑も許されない」という誤解に陥ります。
インドで「許される」のと日本で「許されない」のは、迷惑という言葉で誤魔化されていますけど、別のものですよね……というのが、本文の主張のひとつです。
日々、インド人とも交流しています。
映画館で、咳をしたり赤ちゃんが泣いたら、
迷惑かけんな、出てけと、と思う日本人。
実際に日本人の方は出ていきます。
舌打ちして迷惑アピールするのも日本人(感情を律せられない残念な方だけだけど)。
方や大丈夫?と、代わりに赤ちゃんを抱っこしたりあやしたり心配するインド人。
そのかわり、自分が騒音の発生源でも絶対に、映画館から出ていきませんよ。
出てけよ!と内心思うのは日本人だけなんだろうなあ!なんて話していたら、
韓国人も全く同意見でした。