上橋菜穂子の『月の森に、カミよ眠れ』を読んだ。
解説で、武田静澄氏の『日本伝説集』にある「あかぎれ多弥太」伝説に触れられており、これが、物語の発端となっているらしき記載がある。
ところが、「あかぎれ多弥太」自体には、たどり着けないようだ。
まず、武田静澄著『日本伝説集』(現代教養文庫 昭和51年 初版第17刷)より、引用する。
---------------- 引用開始
あかぎれ多弥太
祖母山という山は、日向、豊後、肥後の三国にまたがる高山であるが、そのふもとの塩田というところに、塩田の太夫という長者が住んでいた。長者には、花のみもとという涼しいひとみをもった美しい娘がいた。花のみもとは、やがて年頃になった。が、ふるような縁談にも耳をかさず、秘蔵の玉といつくしんだ。
いつの頃からか知れないが、明るい月夜になると、横笛のさえた音が高い。空に反響した。だれの手すさびかと、そっとうかがってみると、昼のように明るい白い道を、身分ありげなひとりの若ものが歩いていた。いいようもない優れた笛のぬしは、その若ものだった。なおもあとをつけてゆくと、若ものは長者のいかめしい塀をこえて、庭の奥へしのびこんでいった。
村人のうわさ話は、じきに両親の耳にはいった。母親はみもとをよんだ。「お前は、親の知らない男としたしくしているというではないか。その若ものというのは、いったいどこの人です」
いくら問いただされても、若ものの氏素性を知らないみもとは、答えることはできなかった。母親はみもとにいいつけて、そっと若ものの着物の襟に、糸のついた針をつきささせた。
若ものはそれともしらずに、明けがたが近づくと、どこへともなく帰っていった。翌朝、塩田の長者は力じまんの村人を大ぜいつれて、糸をたどって追っていった。その糸は野をこえ、山をこえ、どこまでもつづいていた。ついに一同は、日向と豊後と肥後の境にある祖母山のふもとまでたどりついた。糸のさきは、とある岩穴の中へ入って消えていた。ふしぎなこともあるものだ――人々が岩穴の前に立ちどまって思いまどっていると、穴の中からはぶきみなうめき声が聞こえてきた。さすがの屈強な男たちも、あまりの恐ろしさに、顔を見あわせるばかりで、だれひとり進んで穴に入ろうとするものはいなかった。
そのとき、一行のあとからついてきた花のみもとが進みでた。
「苦しそうにしていらっしゃるのは、どなたでしょうか」
「そういう声はみもとか。‘昨夜、わたしはのどに針をたてられた。このままではやがて死ぬほかはないが、その前に、ひとめなりとそなたの顔をみたいものだ」
「わたくしもお会いしとうございます。たとえ、どのようなお姿であろうと、恐ろしいとは思いません。どうぞお姿をみせてください」
岩穴の中からは、一そう苦しいうめき声がひびいてきた。と、はげしい地ひびきがして、暗い奥の方からあらわれたのは大蛇だった。
みもとが大蛇の咽の針をぬいてやると、大蛇はみもとに向かって、
「わたしは祖母山のぬしだ。そちはやがてわたしの子を生むが、その子は、成人ののち九州随一の勇士になるはずじゃ」
といって、まもなく息絶えた’
みもとは大蛇が予言したとおり、月みちて男の子を生み落とした。子どもは成長するにしたがい、体格も大きく、力も強い少年になった。ふしぎなことに、この少年は夏でもあかぎれがあったので、人々はあかぎれの童子とよんだ。
成人すると、あかぎれ多弥太と名のった。そして祖母山のぬしのお告げのような勇士になった。多弥太五代目の孫に、尾形三郎という源氏の勇士がいたが、三郎のからだにはうろこがあったということである。
(宮崎県西臼杵郡 祖母山)
---------------- 引用終わり
内容は、『月の森――』の、ホウズキノヒメを彷彿とさせる物語である。
また、伝説の多弥太を、タヤタとして登場させたものと思われる。
ただ、夏でもあかぎれがあったという、あかぎれ多弥太が、勇士となり、その子孫が、尾形三郎という著名な人物にまでつながったというのは、タヤタとはいささか趣が異なる。
さて、「尾形三郎(あるいは、緒方三郎)」という名前までたどり着くと、これはまた、種々の物語に到達できる。
http://www.miyagin.co.jp/pleasure/0103.html
http://www.d-b.ne.jp/siga/panora/ogata/ogatagawa.html
など。
いずれしても、尾形(緒方)三郎も、平家物語にもうたわれながら、義経と共に都落ちをはかりながら、捕まって流罪になるなど、なぜかうら悲しいさだめを感じさせるものと思う。
それでも、尾形三郎にいたる、多弥太の系図を考えるとき、これは、明らかにタヤタとは異なる物語につながっている。
多弥太の子孫は、人の中に残ったのだし、そうでなくても、都で魔物を退治したナガタチの立場だろう。
この意味で、あかぎれ多弥太の伝説が、『月の森――』のベースであるとか、モチーフになったというのは、適切ではない気がする。もちろん、重要な「きっかけ」であったとしても。
さらに、きどのりこ氏の解説で、「祖母山に伝わるほんの数行の伝説から」と書かれている。
出典も示されているわけだし、「ほんの数行の伝説」と言い切るのも、それは、適切ではない気がする。
さて、本編に戻ろう。
この物語は、「稲を作ろうとすると、〈かなめの沼〉意外に場所がなかった」という意識が下敷きになっている。
しかし、もうひとつの大きな要素は、キシメの畏れであった。
終盤でキシメ自身がこのことに気づいている。そして、「いちども、〈かなめの沼〉にふれずにムラが生きのびる道を、タヤタと語りあおうともおもいつかなかったのだ」とその心情を吐露している。
タヤタと(なりゆきではあったが)ナガタチという並外れた力士がそろっているのだ。本当に、〈かなめの沼〉いがいに稲作をする道はなかったのだろうか?
これは、ホウズキノヒメが「〈かなめの沼〉には手を触れてはならない」としながらも、(この秋という限定ではあっても)月の森に立ち入ることを許したのと――その、「カミ」との結びつきの強さの差なのだと思う。
もちろん、キシメがカミへの畏れを克服できなかったのは、若すぎるカミンマ故だったのか、律令に覆われ始めた時代世故なのか、それは、考えるべき点だとは思う。
最期に。
日本史の知識として、公地公民や口分田、班田収受は知っていた。
しかし、本書にこういう一節がある。
「郡司さまなど大きなクニの長たちは、朝廷に従うたとはいえ、おのれのクニはおのれのものだと思われていた……」
そう、それは、確かに、自らの持っていた土地を朝廷にさしだした(奪われた)ということだったのだ。
かつて、大化の改新―大宝律令―班田収受の法 という歴史の流れを学んだとき、幸福な国へのステップを踏んだように思った。しかし、その印象を、「おれたちのクニ」が「おれたちのもの」ではなくなった時なのだと思うと、別の感慨が浮かぶのである。
2013年05月07日
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