2019年02月03日

誰のために化粧をするのか 〜『たどりつくまで』の思い

まず、自分自身の立場をいえば、私は「化粧は社会人女性のマナー(常識)」とは思っていない。
少なくとも必須ではないものと捉えている。
一方で、自分の意志で化粧をすることを否定することもないかとは思っている。
さて……。

2018年、資生堂CM騒動など、女性が「男性目線の社会で生きているという現状」が意識された年だった。
その中で、女性が化粧をするのは、男性の視線を意識するからだ――という、ありそうな考え方を否定した、「女性が、自分がなりたい姿になるためにするのが化粧」という考え方が、改めて――新たにではなく、改めて――表明される場面もあった。

今、ここで、知ったかぶりをして、「改めて」などと書いたが、私としてはこれは、「新しい」考え方だった。

話は変わるが、三浦しをんの『むかしのはなし』という作品がある(幻冬舎文庫・ISBN978-4-344-41095-4・初出は2005年)
収録作品の中にあるのが、『たどりつくまで』である。
地球の滅亡まで、3ヵ月と迫ったある日、既にほとんど人のいない街で、未だにタクシードライバーをしている主人公のタクシーにある女性が乗る。
その女性は、かなり大きな「美容整形」の最中である。(顔の半分が(この女性曰く)「工事中」。
彼女は問う。
「もうすぐみんな死ぬかもしれないってのに整形だなんて、馬鹿げていると思う?」
主人公は「いいえ」と答える。

そして、「私のまわりのひとはみんな、どうしてなのか知りたがったわ」と、
主人公はさらに答える。
「自分の身体を――自分で居心地のいいように作りかえるのに、どうして理由が必要なのが、私にはわかりませんね。整形と、ジョギングで身体を鍛えたり、腐った盲腸を切り取ったりするのとは、どこが違うんでしょう?」

正直に言えば、初めてこのお話を読んだとき、心に残るお話であるというのはそれとして、この会話には、「『そういう考え方』もある」という印象を持った。
しかしながら、冒頭書いた、「女性が(男性にこびを売るためではなく)自分がなりたい姿になるためにするのが化粧」という考え方は、まさに、2005年に既に書かれていた、この言葉に言い尽くされているのだと、2018年の昨年、やっと気づいたというのが、正直なところである。

最後に、このタクシードライバーの主人公。実は、「彼女」をとりまく、性のアイデンティティーにも、一ひねりがあったりする。
posted by 麻野なぎ at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | ジェンダーをめぐる雑感

2018年10月26日

ひとりで男の部屋に行った女の子は、「覚悟」すべきなのか?

少々旧聞に属しますが、あるアイドルの部屋に行ったファンの女の子が、婬乱な行為をされたという事件がありました。
もちろん、それは犯罪ではあるのですが、その中で、「一人で男の部屋に行くというのは、女性のほうもそれなりの覚悟をしているのでは」という考え方もあったようです。
この記事は、やはり、それは、男性の側の思い込みなのではないかなという、そういう記事になります。

まず、この記事を書いている、2018年10月の時点では、「恋愛対象は異性である」という人の比率が(是非ではなくて)高いということは書いておきます。
さらに、性に関する話題を述べる際に、性に関する感じ方という点では、男女間で、大きな不平衡があるという点を指摘しておきます。
例えば、女性にとって、向こうから歩いてきた男性に突然身体を触られるということは、恐怖、あるいは嫌悪の対象です。
一方、男性にとって、向こうから歩いてきた女性に突然身体を触られるということは、それほど嫌悪の対象ではありません。
人によっては、「ラッキー」という反応をするかもしれません。

この記事を書いている、今の時点で、こういう背景を意識したとすると……。

女性が男性を見る視点として、「親密度」と「(ここまでなら接近されても良いという)距離感」というものがある気がします。
女性が、初対面の(=見ず知らず)の男性を見る場合、おそらくその男性は、「確率的には自分に対して何もしない可能性が高いけれど、もしかして、いきなり痴漢をしてくる可能性がある人物」と見えるはずです。
多くの男性にとって不本意かもしれませんが、世間で痴漢犯罪がそれなりにあり、かつ、置換の加害者が外観で区別できない以上、「目の前の(未知の)男性は痴漢かもしれない」という判断は、当然といます。

このレベルで、
親密度=赤の他人
距離感=身体が触れる範囲に入るな
でしょう。

単なる通りすがりではなく、仕事で縁があったり、上記のようにファンだったりすると(というか、ファンになる途上で)この男性に対する知識が増加します。
そこで、もしも、「ああ、この男性は、いきなり痴漢したりしない人のようだ」という理解ができれば、次のレベルに進み。
親密度=素性をある程度知った人
距離感=日常会話をするレベルまで接近してもOK
かと思います。

もちろん、男性に対する知識が増加する局面で、「この人は痴漢する人かもしれない」と思えば、「距離感=身体が触れる範囲に入るな」のままでしょう。

こういうわけで、おそらく、女性は男性と対峙した場合に、未知の男性は痴漢である可能性を排除できない。と考えると思います。
そして、(確かに、比率としては痴漢をしない男性のほうが多いので)やがて、「この人は痴漢をしない人のようだ」と判断できた時点で、距離感を狭めることができるのです。ただ、この時点で注意しておかなければならないのは、親密度のほうは、それほど変化してない(未知の人がある程度少知った人になる程度)ことです。

男性を考えてみましょう。
上述の通り、2018年10月の段階では、多くの男性が、女性に襲われるとは考えていません。
だから、男性の女性に対する支点は、ほぼ、親密度のみであると考えて良いと思います。
つまり、男性が女性を見た場合、「親密であれば距離も狭まる」と認識します。

ここで、「男性の部屋に行くなら……」に対する、意識の差が発生します。
女性が、「男性の部屋に行く」のは、(あるいは、親しく話すようになるとか)、必ずしも、男性に対して親密になったからということを意味しません。
それどころか、「この人は痴漢をしない人のようだ」という判断に寄っている可能性が高いと思われます。

一方で、男性から見れば、「親密度」しか要素がないので、「女性が最近話しかけてくれるようになった(部屋に来てくれた)=自分に対して、好意を持ってくれた」と誤解しがちです。
ですので、女性が、「自分に対してよくしてくれた」と思い込んで、一方的なストーカーになったりという場面もあるのだと思います。

この点、やはり、男女間の感じ方の不平衡があると思うわけですし、男性としては、一方的な思い込みで女性に言い寄るというのも、もってのほかと、そうなると思います。

【追記・自分はゲイであるというカミングアウト】

さて、冒頭、「2018年10月の時点では……」などと書きました。
今の時点では、「恋愛対象は異性」という人が多いのは、おそらく確かなのだけれど、それでも、「自分はゲイである」というカミングアウトが話題になったりします。
さて、これに関連して、「自分(男性)の知り合い(これも男性)が、ゲイだった。怖い」のような意見が、たまに見られるわけです。
※白状すれば、私自身も、知り合いがカミングアウトしたら、そう感じたかもと思います。

でも、これは、二重の意味で間違いであるし、失礼です。

まず、現在多数を占める「恋愛対象は異性」という人の多くが、四六時中恋愛の(または、性的な)ことを考えているわけではありません。
私自身、仕事中に女性と話をしても、そのたびに、性的なまなざしで相手を見るなんていうことはないわけです。(一生を通じて一度もないとはいないかもしれない)
また、恋愛対象という意味では、誰しもが選ぶ権利はあり、目に付く異性をことごとく性的なまなざしで見るということも、ないわけです。(おそらく)

だから、当然のことながら、友人がゲイだったとして、男性である自分を「性的なまなざしみる」可能性は少ないわけで、いきなり、「怖い」はないはずです。

が、一方で、これは、女性が男性一般に対して抱いている恐怖でもあるということを感じた次第です。
上述しましたが、可能性だけの問題でいえば、目の前の男性が(女性である)自分を性的なまなざしで見ているという頻度は、そんなに多くはないはずです。
が、可能性として存在する以上、「現に目の前にいる男性が自分を性的なまなざしで見ているのではないか」あるいは、「実際痴漢してくるのではないか」という恐怖はあると思います。
そして、男性がそれを感じなかったのは、従来は、「女性に(男性である)自分が性的なまなざしで見られても、よしんば痴女であっても問題ない」という認識からです。
だから、「ゲイである」というカミングアウトによって、「この男性に(男性である)自分が性的なまなざしで見られる『可能性』がある。実際痴漢してくるのではないか」という認識で、初めて、「恐怖」を感じることができたのでしょう。
posted by 麻野なぎ at 18:16| Comment(0) | TrackBack(0) | ジェンダーをめぐる雑感

2017年01月04日

ジェンダーを考えることの難しさ

最近、「ジェンダーフリー」ということが話題になる。
しかし、このことについて考えようとすると、私は、少々難しさを感じる。
それは、「ジェンダー」が、(生物学上のではなく)社会的・文化的性差と解釈されるとおり、「文化的性差」という側面を持っているからである。
文化的な素地を意識することは難しい。
一方で、「文化」を(たとえば、民族や地域の固有財産として)無条件に「良いもの」とする風潮もある。
しかしながら、「文化的性差」がもしも問題になるのなら、その素地にある、「文化」も、無条件に良いものと決めつけることはできないだろう。

その中でも、ジェンダーフリーの、本質的な考え方は、「平均値を外れることはありふれたこと」という事なのだろうと思う。
たとえは、統計的に調査を行って、「男の子は青を、女の子は赤を好む傾向が強い」という結果が得られたとしよう。
そういう結果があったとしても、「赤が好きな男の子」や「青が好きな女の子」は、ありふれたもので、別段特別なものでも、ましてや、異常なものでなどあり得ない……という、そういう考え方が本質なのだろうと思う。

だから、本来、男女で好きな色が異なるということは、あり得ないことと決めつけてしまうのではなく、たとえ男女で好きな色の傾向に差があったとしても、「彼女は女性だから赤を好む『べき』」と決めつけることが、まず、間違っているのだと思う。

【社会的・文化的に作られる性差】

2017年1月現在、日本の会社組織では、「女性の管理職は少ない」という事実がある。
一方で、「この時点」で、管理職としてふさわしいの力を持っている男性社員と女性社員の数を比べると、「男性の方が多い」という組織は、ある程度以上存在しているのではないかと思う。

ただし、これもまた、おそらくは「作られた性差」なのであろう。
管理職としての能力というのは、多くの場合、周囲の期待と教育によって作られる。
少し前まで、管理職として「求められた」のは主に男性だったというのは、事実としてあって、故に、男性ばかりにその教育がなされていたと言うこともまた、事実であろう。
だからこそ、2017年1月の時点では、管理職としての能力を持つのは、男性の方が多いということはありそうな事である。
これは、女性の特性という問題ではなく、有り体に言えば、「過去の(負の)遺産」ということになる。

ところで、こういうことは言われてないだろうか?
「男性は高所に立った見通しを立てることに向いており、一方女性は細やかな気配りが得手である」
これも、現時点では、傾向としてありそうなことに感じる。けれど、これは、本当に男女の特性なのだろうか? 子供の頃から、「男のくせに細かいことに気にするな」とか、あるいは、女性サイドからも、「細かいことに気にするのは、器の小さな男」という評価があったりしなかっただろうか?

言い換えれば、これもまた、「男らしさ・女らしさ」という社会的・文化的な要求の反映なのではないだろうか?

生物学にはっきりした性差のひとつが、「女性は子供を産むことに適した身体を持っている」というのは、明らかだろう。
ただし、「だから、女性は、育児に向いている」というのは、自明ではない。
これも、社会的・文化的要求の反映である可能性が高い。

文化的な要求というのは、案外やっかいである。
「日本的な文化」といった場合、それが、男女の役割を固定しているケースはありそうな気がする。
また、「役割」と構えて考えなくても、「女子会」や「ガールズトーク」という言葉が認知されていて、また、それは、男女の特性の差を反映しているとしたら、その、「性差」は、持って生まれたものだろうか? あるいは、「社会的・文化的に作られたもの」だろうか?

それを考えると、ジェンダーを一切認めないという社会は、(私としては)想像しがたいというのが正直なところである。

そうであっても、冒頭書いたように、「社会的・文化的要求(もしくは、予断)と一致しない」ということは、それはありふれたことで、彼や彼女が、異常ということでは決してないということを、私たちは強く意識しなければならないのだと思う。
それが、ジェンダーフリーにつながる、「十分条件」ではないとしても、「必要条件」として。
posted by 麻野なぎ at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ジェンダーをめぐる雑感