2016年04月24日

気になる表現

最近、ニュースで以下のような表現を聞いた(ような気がする)

・病気療養のため、○○選手は、半年ぶりに練習に参加しました。
・震災のため、○○が、一週間ぶりに開催されました。

完全にこの通りだったか? と言われると少々自信はないが、あれ? と思ったので、おそらくこの通りだったのでしょう。
上記、いずれも、「病気療養のため」が、「参加しました」を、「震災のため」が、「開催されました」を就職する文型になっているので、いや、れおはおかしいだろうと思った次第です。
まあ、意味は分かりますが。

たとえば、

・病気療養のため、○○選手は、半年ぶりの練習になりました。
・震災のため、○○は、一週間ぶりの開催となりました。

なら、文のつながりの上で不自然さはない。
でも、ニュースということでは、「練習に参加した」「開催できた」が主題だと思うわけで、それなら、省略せずに、

・病気療養のた休養していた○○選手は、半年ぶりに練習に参加しました。
・震災のため中止されていた○○が、一週間ぶりに開催されました。

が良いのではないかなと思う。

また、最初の文型でも、

・病気療養のため、○○選手は、半年ぶりに診察をうけました。
・震災のため、対策会議が、(前回震災から)3年ぶりに開催されました。

ならば、(例は不謹慎でも)意味は通じると思う。
だから、ある文型が適切かどうかというのは、やはり、意味内容も関わってくるのであろう。
posted by 麻野なぎ at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感・ことば

2016年01月06日

多用される「……すぎる」

最近、バラエティ番組を中心にか、「……すぎる」という言葉が多用されている気がする。
それも、どうやら、肯定的な意味で使用されていることが多いようだ。
本来、「……すぎる」とは、

〔物事がある数量・程度を〕こえる。度を越える。(学研国語大辞典)

のように、否定的なニュアンスを持っている。
※接尾語としての、「……すぎる」

「大きい服」は、ゆったりとして快適かもしれないが、「大きすぎる服」は、扱いに困るものだ。

もちろん、「辞書に書かれている事柄を盲信するのは良くない」とか、「辞書に書かれていることにこだわるべきではない」とか、「そもそも言葉は変化するものである」という主張は、それぞれ間違ってない。
ただ、言葉が表現の手段であるのみならず、コミュニケーションの手段でもある以上、共通認識としての辞書は、尊重すべきだと思う。

以上のように書いてきたが、私自身は、「美しすぎる人」のように、肯定的な意味で「……すぎる」を最初に使用した人は、センスのある人だと思う。実に、辞書に書かれている(共通の)ニュアンスを無視することで、「常識の範疇で捉えられないような美しさ」を表現したのだと思う。

ただ、繰り返しになるが、それは、「……すぎる」という表現を肯定的な意味では使わないという共通認識があった上での、「常識破り」である。
最初はインパクトを伴った表現であっても、それが、まねされることで、インパクトは薄れてしまう。
今、バラエティで、「美しすぎる人」と聞いても、単に、「とても美しい人」という印象しか与えないであろう。

ニュアンスの喪失である。
言葉は単なる意味の他に、ニュアンスを伴っている。
それを利用する――少数の場合、敢えてそのニュアンスを否定するような使い方をする――ことで、印象を深めることができる。
ただ、それは、多用してはならない。

単に、「辞書にある使い方と違う」というだけではない。
元々あったニュアンスを喪失させ、そしてまた、印象をも喪失させるからである。

posted by 麻野なぎ at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感・ことば

2015年09月14日

すごいおいしいスイーツ(?)

以前からといえば言えるけれど、「すごい」という言葉が、間違って使われるケースが多い気がする。
「すごい」というのが、元来は「恐ろしい」という意味で……と、ここで言うつもりはないのだけれど、「すごいおいしいスイーツ」はだめだね、と思う。

文法的にいえば、「すごい」は形容詞で、「すごい」という形をとるのは、終止形か連体形である。
「おいしい」(形容詞)という用言は、「連用形」である、「すごく」を採るべきだということになる。

だから、「すごくおいしいスイーツ」は正解。
「すごいおいしいスイーツ」は、「おいしい」を強調しているのなら間違い。
ただ、「すごい」は、終止形でもあるので、「すごい! おいしいスイーツ!」なら、OK。
この場合、「すごい」で切れているので。

これは、たとえば、
「すごい人が来た」と「すごく人が来た」の相違でもある。
「すごい人が来た」の「すごい」は連体形なので、「人」を修飾する。
人はたった一人かもしれないけれど、その人自身がすごいのである。
「すごく人が来た」の「すごく」は連用形なので、「来た」を修飾する。
一人一人は普通の人かもしれないが、とにかく、大量に来たのである。

言葉は生き物だという意見もあるし、文法なんて所詮後付けという意見もある。
この意見は、いずれも正しいと思う。
ただ、後付けで文法ができているのは、そのように一般化できるほど、言葉を話す人のセンスが共通化できている(できていた?)ということを意味している。
少なくとも「すごいおいしいスイーツ」には、「なんか変だな?」と感じて欲しい気がする。文法的な説明なんて、無視しても良いから。

posted by 麻野なぎ at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感・ことば

2013年03月01日

平均寿命を考える

2012年2月28日に、厚生労働省から平均寿命のデータが発表された。

http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/tdfk10/dl/02.pdf

これを受けて、早速3月1日のニュースで、「長野県が最も長寿」というニュアンスの報道がされていた。
また、「長寿といえば沖縄」というイメージがある(ない?)にもかかわらず、沖縄の男性の平均寿命は全国平均をわずかに下回るという事実もある。(女性は3位)

今回は、これを考えてみたい。
さて、まず、「寿命」という言葉に対して、多くの場合、(いわゆる)天命をイメージすることが多い。
しかし、統計上の「寿命」というのは、あくまでも、亡くなったときの年齢であり、幼い時に事故で、あるいは病気で亡くなった場合も、「寿命」であることはいうまでもない。

さらに、「平均寿命」という言葉からうけるイメージがある。
例えば、平均寿命が80歳と聞けば、「今生きている人が、平均して、80歳まで生きるということなのかな」というイメージを抱きやすい。が、これも、実は、平均寿命の定義からは外れている。

平均寿命の元になるのは、「今(たとえば、60歳)の人が平均してあと何年生存しているか」という、「平均余命」である。
もちろん、平均余命はそれぞれの年齢毎にあり、平均寿命とは、「0歳の人の平均余命」として定義される。

ということは、既に、60歳になった人が、どのくらい生きられるかというのは、「平均寿命」の数字とは直接関係しない。
一方で、平均寿命には、乳児期の病気・事故、あるいは、若いときの事故による死亡も盛り込まれている。
統計的にいって、1歳で病死してしまったという場合、平均寿命を引き下げることになってしまう。

具体的な例に入ろう。

上述のページには、「主な年代の平均余命」というものもある。
この男性のデータをピックアップすると、

沖縄 0歳:79.40 20歳:59.94 40歳:40.77 65歳:19.50 75歳:12.35
長野 0歳:80.88 20歳:61.31 40歳:42.13 65歳:19.71 75歳:12.05

ということで、長野県は、確かに75歳を除く年代で、平均余命がトップということになっている。
沖縄県は、65歳で、長野県につぐ全国2位、75歳では逆転して、全国トップという結果だ。

これは、やはり、沖縄県男性では65歳に達するまでの死亡率が比較的高いという事実を反映しているのだろう
(といっても、沖縄県男性の平均余命は全国平均を下回っているわけではない)

逆に、既に75歳になっている人という見方をすれば、沖縄県の方が、余命は長いと言えるわけである。
だから、普通にイメージしやすい「年を取ってからの天命」というものを考えれば、「沖縄県は長寿」というイメージにもつながわるわけである。

ひきつづき、女性のデータを見よう。

沖縄 0歳:87.02 20歳:67.49 40歳:47.98 65歳:24.89 75歳:16.46
長野 0歳:87.18 20歳:67.42 40歳:47.82 65歳:24.36 75歳:15.63

0歳の人の平均余命、つまり、平均寿命は、確かに長野県が沖縄県を上回っている。
しかし、他の年代では、沖縄県の方が上回っており、75歳の人の平均余命においては、長野県は、全国11位になっている。
先に述べたとおり、既に成人に達した女性は、沖縄県の方が余命は長いという結果になっているのである。

男女とも長野県が平均寿命トップというのは、データとして間違っていない。
しかしながら、75歳における平均余命が、全国で11位であるというのは、少し違ったイメージになるのではなかろうか。
posted by 麻野なぎ at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感・ことば

2011年04月13日

日本人は「人に迷惑をかけるな」といい、インド人は「自分も迷惑をかけているのだから」という

さて、時々こんな話を見かけることがある。

> 日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは、
> 「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげな
> さい」と教えるそう。

ここでは、本当にこう言われているのかを検証するというのではなくて、こういう場合に陥りがちな、「定義の問題」を挙げる。
一見すると、「迷惑」という同じものに対する、日本とインドの認識の差に見える。(インドでこう言われているというのが正しいとして)
しかし、ここに、「同じ言葉が必ずしも同じ事を意味しない」という落とし穴がある。

「人に迷惑をかけてはいけない」
こう言われた場合、具体的に何を思うだろうか?

・約束を破ってはいけない。
・自分のミスを人に押しつけてはいけない。
・待ち合わせをすっぽかしてはいけない。

私であれば、こんなことを思い浮かべる。

一方で、「私たちは生きているということ自体、他人(もっといえば、地球)に迷惑を変えるということなのだ」という発想は、最近では、そんなに珍しいものではない。
この場合の、「迷惑をかけている」というのはどういうことだろうか?

・他の人の労働 etc. がもとになって、生活が可能なのだ。
・一見、快適な生活をすることが、地球には環境負荷をかけている。
・お互い様

このあたりになると思う。

ようるすに、「他人に迷惑をかけるな」ということと、「生きていく上で、周りに迷惑をかけざるを得ない」ということは、同じ「迷惑」という言葉でありながら、意味しているところが異なる。

これが、定義の問題である。
つまりは、日本人は……、インド人は……と、一見異なる意見が並んでいるようで、(少なくともこれを読んだ日本人の感覚としては)

・本来かけなくていい迷惑はかけるな
・でも、どんな形であれ、生きていく上で誰かに迷惑がかかっているのは忘れるな。

と語っているだけで、矛盾する考え方ではないのである。

実際、この言葉を受けて、「インドの考え方の方が安らぐ」というコメントも見かけるが、「迷惑をかけるな」という、迷惑を具体的に考えた上でも、そう判断できるのだろうか。
あるいは、そもそも、無理強いをする口実として、「迷惑をかけるな」といわれるのを、「日本人の意識の問題」にすり替えているのではないか、ふと、そう思った次第である。

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さて、考えるべきはそれだけだろうか?

実は、日本人は、「人に迷惑をかけるな」という。こちらのほうは、その後が省略されている。
私たちは、「人に迷惑をかけるな。人の迷惑も許すな」と、本当に教わってきただろうか?
少なくとも私は、「人に迷惑をかけるな。でも、他人の迷惑は気にするな」と教わってきた。

出だしの部分で、一見して立場が異なる二つの文章を並べ、一方は後半の部分を隠す。
こうすることで、後半の部分も異なる意見なのだという先入観が忍び込むことになる。
posted by 麻野なぎ at 12:46| Comment(13) | TrackBack(0) | 雑感・ことば

2010年05月09日

「立派な犯罪です」という表現

たとえば、「万引きは立派な犯罪です」という表現がある。
この表現に対して、時として「犯罪を、立派などと表現するとはどういうことだ」というクレームがつくケースがあるらしい。
「立派な」という単語自体は、形容動詞で
・堂々としていて正しいようす。いかめしく見事なようす。また、技術・能力などがすぐれているようす。
・とやかく言う所がなく完全であるようす。
という2つの意味を持っている。(いずれも、『学研国語大辞典(第2版)』

冒頭の例は、後者の用例であり、「間違いなく、明らかに犯罪である」ということを意味している。
後者の意味に気づかなかった場合、不自然な意味だと感じられるわけである。

と、ふと考えてみた。たとえば、「万引きは立派に犯罪です」と表現したら、おそらくクレームはつかないだろう。
この違いは何によるのか? そもそも、この表現は正しいのか?

さて、少々調べてみると、立派なという単語は形容動詞である。
そして、「立派な犯罪です」というケースでは連体形であり、「立派な」は直接名詞である「犯罪」を修飾する。
これに対して、「立派に犯罪です」のケースでは、連用形であり、助動詞の「です」にかかる。
つまり、「明らかな事実です」というニュアンスとなる。

だから、「立派に犯罪です」であれば、後者の意味が強調され、誤解の余地も少ないと、そういうことのなのだと納得した次第である。
posted by 麻野なぎ at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感・ことば

2010年04月14日

「送付」という言葉

以前、「送付という言葉は、『送りつける』と書くように、ぞんざいな言葉である。だから、ビジネスの場で使ってはならない」と、そういう主張を、複数のサイトで見た記憶がある。
はたしてそうだろうか?
試しに辞書を引いてみると。
「品物や書類を送りとどけること。〔改まった言い方〕」(学研国語大辞典)
「品物や書類を送り届けること。「請求書を─する」」(明鏡国語辞典)
と、いずれも、ぞんざいな言葉だという解釈ではない。
学研の辞書などは、わざわざ、「改まった言い方」とまで断っている。

漢和辞典で、「付」を引いてみると。

{動詞}手渡す。▽相手の手中にぴたりとつける意から。
{動詞}相手にくっつけて任せる。たのむ。また、預ける。
(いずれも、学研漢和大字典)

とある。
さらに、「つける」を引くと、
「動作の勢いが激しい意を表す。強い勢いで…する。「打ち付ける」「たたき付ける」「どなり付ける」「叱り付ける」」
(学研国語大辞典)
が、「送りつける」の意味としては該当する。
しかしながら、この意味での使用は、「接尾語」であって、熟語の成り立ちとして、動詞+接尾語という組み合わせも不自然である。

また、万一、「送付」という単語の元々の意味が、「送りつける」であったとしても、たとえば、「貴様」という単語の元々の意味が、尊称であったとしても、現時点においては、「ビジネスの場で使ってはならない」のと同じで、どこでどう言葉を使用するかは、その時点における意味づけを考慮すべきであろう。

同じように、お客様からのメールに「了解しました」と返すのは失礼だとも書かれていた気がする。
辞書を引いてみると。
「理解して承認すること」であり、承認とは、「〔同意して〕みとめゆるすこと。聞き入れること」(いずれも、学研国語大辞典)との解釈が見られる。
なるほど、これは、失礼であろう。
posted by 麻野なぎ at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感・ことば